梅雨時の気圧の変化や寒暖差、蒸し暑さに、体力を削られやすい時期です。食べて寝ることくらいしかできていない私にとって、毎日の「回復薬」になっているのが、SNSで話題のお猿のパンチです。飼育員さんに育てられ、動物園の猿山で暮らしています。
なぜこれほど惹かれるのか。職業柄、パンチの生い立ちにはどうしても心理師の目が向きます。 生まれた時から母親の愛情を得られなかったことによる愛着障害の可能性や、新しい先輩お猿達の群れに馴染めず適応障害になってしまったらという勝手な心配は正直あります。そして、これほど注目されるパンチを育てる飼育員さんたちのメンタルも考えてしまいます。人間の心理とお猿の心理が交錯し、本当に目が離せなくなりました。しかし、この関心は単なる職業病的な好奇心に留まらず、その先にある「家族」という言葉に突き動かされていることに気づいたのです。
パンチはいつ、自分を「お猿」だと自覚したのでしょうか。気がつけば人間に育てられ、非言語的なコミュニケーションを重ねてきたのだと思います。名前の認識はともかく、育ての親である二人の飼育員さん達の顔や声を判別し、よく見て反応していると思います。人間との関わりの中で、「自分はこの人たちに属するのだ」という帰属性(拠り所)が生まれたと考えます。
猿山という、暗黙の了解やヒエラルキーが存在するお猿の社会で、掟を知らないパンチは頻繁に怒られます。人間から見れば耐え難い光景に映ることもありますが、これはお猿の社会のルールであり、人間が介入すべきではないことだと理解はしています。 ただ、人間に育てられたパンチからすれば、何よりも飼育員さん達は大切な家族(育ての親)なのではないかと。そして、まだまだ「お猿に成ることを勉強中」なのかもしれません。大人になっても、パンチにとって永遠の拠り所は「あの家族」なのではないか――そう思わずにはいられないのです。
いかなる時も恐怖や不安を抱かせず、慈しみ深く育ててくれた飼育員さんたちは、パンチにとっての「安全基地」であり、まさに人間でいう「家族」そのものに映るのです。「動物に人間の愛情を当てはめるのはエゴか」という葛藤もありますが、そこに絆を見るのは自然なことのようにも思えるのです。
現代において「家族」の定義は多様化しています。法律上の規定も一様ではありません。社会学の知見には、「誰を家族とするかは、血縁や同居よりも『この人が私の家族だ』という個人の主観によって決まる」という見方があります。
立場としては、彼らは動物園の職員と動物です。パンチが猿山の一員として成長していくことは理解しています。それを承知した上で、私はパンチと飼育員さん達の生活の中に、「家族」の絆を感じるのです。 画面越しに、その家族を遠くから見守る知らないおばちゃん(私)として、そこに絆を感じるだけでこちらの心まで温かくなります。その絆から生まれる温かさを、いつまでも画面越しにお裾分けしてもらいたいと願っています。


