「私はこれで良い」を貫く心理学――完璧を求めず、試行錯誤しながら自分の価値を信じるために パンチから学んだこと(part5)

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生まれて早々からずっとお猿のパンチを愛情深く育ててこられた市川市動植物園の飼育員さんたちですが、いつまでも人間のそばに置いておくわけにはいかないという、当初から群れへ戻す計画を早い段階から進められていたのだと思います。それはパンチがお猿として生きていけるようにするための大切な計画であり、同時に、まだ見ぬお猿の世界へ大事な息子を旅立たせるような、切なくも温かい親心に近い感覚だったのかもしれない、と勝手に想像が膨らみます。

人間の世界にも、これに似た「子離れ」の瞬間があります。例えば海外のボーディングスクール(全寮制の学校)のように、12〜13歳という、まだ大人になりきれずアイデンティティも確立途中の微妙な時期に、手塩にかけて育ててきた我が子を親元から離す試練があります。 これは本人だけでなく、家族全員にとっての試練となり得るものです。パンチの歩みもどこかその境地に似ていて、最初から計画されていたこととはいえ、いざ手放すとなれば、本当に可愛い息子を送り出すようなお気持ちだったのかなと。遠巻きに見守るファンの一人でしかない私でさえ、パンチのことを考えない日はないほどですから、現場の方々の感慨深さは想像に難くありません。

ここで少し話は飛びますが、そんなパンチの姿を見ていると、ふとアニメ『SPY×FAMILY(スパイファミリー)』のアーニャのことを思い出します。私はあのアニメが好きで、あの特殊な「家族」の在り方がとても気になっているのです。スパイという、強いメンタリティや柔軟性を求められるであろう領域には、心理的な視点からも興味を惹かれます。

作中のアーニャは、本来ならまだ小学校に上がる年齢ではないにもかかわらず、何とかその家族の一員であり続けるために年齢を少し偽り、学校という新しい環境で懸命に奮闘しています。特に、父であるロイド・フォージャーに捨てられないようにと、家族のために健気に頑張る姿には、パンチとはまた少し違った形の、家族に対する切実な愛情を感じずにはいられません。

そんなアーニャには、他人の心の声が聞こえる「エスパー」という力が備わっています。ただ、まだ幼い彼女は、聞こえてきた声をいつも正しく読み解けるわけではなく、良かれと思って動いた結果が、時には見事にはまり、時には頓珍漢な空回りに終わることもあります。 そして父ロイドの方は、どんなミッションも危なげなくこなす百戦錬磨のスパイでありながら、そもそもアーニャがそんな力を持っていることに気づく術を持っていないようです(私の知る限りですが)。どんな状況下であれアーニャという存在がちゃんと彼の生活に溶け込み、一つの「家族システム」として機能しているのではないでしょうか。そこには、役割を超えた確かな絆や愛情が存在しているように思えるのです。

ある意味、パンチと飼育員さん達の関係も「動物園の運営や飼育」という仕事上のミッションで成り立っており、アーニャと父ロイドの関係性にもどこか通じるものはあるにはあります。 どちらも、外側の枠組みだけを見れば機能的な関係システムかもしれません。「飼育員さん達が餌を与え、動物達が園内で暮らし、それをお客さん達が観察する」という直接的な因果関係や、「スパイのミッションを達成するために子どもを育てる」という利害関係です。しかし、実際のナラティブ(物語)は、そうした単純な仕組みだけでは説明がつかない豊かさを持っています。

例えば、パンチは、いつも餌をくれるから飼育員さん達に懐いているという考えはあるとは思いますが、いつ何時でも変わらず無条件の愛を注いでくれる養育者であると肌で感じているからこそ、パンチ自身も無条件に水色のユニフォームの飼育員さん達にたっぷりの愛を向けているのではないかと思えてなりません(どっちのバケツに顔を突っ込むかは、パンチの味覚の問題かと)。

その一方で、表面上のフォージャー家は「賢い良い子であれば父は娘を育て、娘が良い子で賢く振る舞えば父は娘を捨てない」という、ある種の条件付きの愛情から始まったシステムです。さらに、他人の心が読めるアーニャには、父ロイドの建前や本音がある程度分かってしまいます。それにもかかわらず、本音を知りながらも関係性が悪循環に陥らないのは、この家族の間に、お互いを尊重し、受け入れ合おうとする相互の思いやりがそこかしこに溢れているからではないでしょうか。

パンチたちの関係も同様で、もし飼育員さんたちが「これは仕事だし、業務を遂行しなければ大変なことになるから」と責任業務をこなしているのなら(それが悪いわけではないのですが)、あそこまでパンチが(全身で)懐くことはなかったのではないかと考えてしまいます。パンチファンとしての贔屓目かもしれませんが、あの飼育員さん達の姿からは、「完璧な飼育員であろう」とする力みではなく、それぞれがご自分なりのやり方で、日々試行錯誤しながらパンチと向き合ってこられた、その積み重ねが伝わってきます。パンチに対する勝手な(私個人の)思いとはいえ、動物園への深い感謝の気持ちが湧いてくるのです。

連日、パンチを通して動物園を讃えずにはいられないファンたちの応援(そこには様々なコメントがあるとは思います)が、多少なりとも動物園スタッフの皆さんのモチベーションや喜びにつながるのであれば、これほど嬉しく、ポジティブな循環はありません。

世の中には、多様な家族の在り方があり、多様な愛情の育み方が存在します。この先、パンチの環境も、アーニャたちの家族形態も、少しずつ変わっていくのかもしれません。それでも、「これが私の家族だ」「これが私の生き方だ」と認識した時、そのどれもが尊く、愛おしく、美しい在り方であると思わずにはいられないのです。

私たちはパンチとアーニャから、完璧である必要も、正解を持っている必要もないのだと教えられている気がします。ただ自分なりのやり方で、時に迷い、間違えながらも、目の前の相手と向き合い続けること。それ自体が、いつのまにか無条件の愛情として誰かに届き、めぐりめぐって自分自身にも返ってくる。そんなポジティブな循環を、パンチと飼育員さん達、そしてアーニャと父ロイドの姿が、静かに教えてくれているように思うのです。